やっぱり女に「冒険」させてくれない『ONE PIECE FILM RED』感想

ONE PIECE FILM RED』を見たその日から、ジリジリとした納得のいかなさが燻っておさまらない。

 

小学校4年生の頃に漫画『ONE PIECE』に心を奪われ、大人になった今も単行本で読み続けている私は「ファン」と言っても遜色ない人間だと思うのだけれど、だからこそ今回の映画には本当にがっかりした。

しかしそもそも尾田栄一郎氏は過去のインタビューで「ファンレターをくれるのは女の子ばかり。でも少年漫画なんだから少女に向けて描いちゃいけない」みたいなことを何回か言っていて、だから私は想定される読者ではないんだとは思う。

悲しいけど、それでも尾田さんがこっちを見てくれると懲りずに期待している私が悪いのかもしれない。でもやっぱりモヤモヤと考えてしまう。

 

※『ONE PIECE FILM RED』のネタバレがあります。

 

今作の新キャラであるウタは、予告編で明らかにされた「シャンクスの娘」という設定が大きな引きなのかもしれないけど、もうそんなのは正直見る前からどうでも良かった。

ワンピ本編の出るわ出るわの後付け過去設定や血縁関係にそろそろ食傷気味だったし、カッコいい女性キャラクターであることに、カッコいい男性キャラクターの娘であるかどうかは関係ないと思ったからだ。

ただAdoが歌唱を担当するのはとても楽しみだったし、ワンピ映画のオリジナルメインキャラが女性だなんて、なかなかないことなので、そこはやっぱり結構期待してしまっていた。

 

そもそもONE PIECEの女性の描き方には前々からめちゃくちゃ文句がある。

「美人」と「ブス」の2種類で女性を二分するルッキズムのキツさや、少年漫画にありがちなセクハラ的描写の問題はよく指摘されるところだと思う。

さらに、ちょっと前にルフィ役の声優、田中真弓さんのインタビューを読んであちゃーと思ったが、母親を活躍させてほしい田中さんに対して、尾田さんは「僕は冒険を書きたい。少年は母から離れることで冒険できる。冒険の対義語は母親(だから母親の冒険は描かない)」といった返答をしたと。*1

田中さんが指摘する通り、ワンピで描かれる父親は尊敬や憧れの対象として描かれ、冒険の中で息子との絆が強調される一方で、母親は早々に死去したり不在だったりしていて、関係性の描写が希薄なのである。

ウソップの母もサンジの母も彼らが幼少の頃に亡くなっている。ナミの母親代わりだったベルメールさんも、愛情深く勇敢な姿を見せたものの、やはりナミが子どもの頃に殺されている。

ルフィ、ゾロ、フランキーには「父親代わり」となった尊敬する人物はいても、「母親代わり」の人物はいない。あるいはそれほど重要視されない(マキノさん、ココロさんやダダン)し、彼女たちはルフィたちに尊敬されていない。

近年のワンピで「母親」といえば“四皇”ビッグマム。今のところ死にはしないし強さも備えたキャラクターではあるが、話の通じないモンスターとして露悪的に描かれていると思う。同じ“四皇”で船のクルーから「オヤジ」と呼ばれていた白ひげへのリスペクトとその描写のカッコよさを思い返すと、あんまりにも「母親」に対する嫌悪感や見下しが現れすぎてやしないかとうんざりしてしまうのである。

極め付けに「冒険の対義語は母親」である。勘弁してほしい。ONE PIECEの連載開始は1997年。ワンピを読みながら育った子どもが母親になっていても全くおかしくない。

「女性」という時点で想定読者から外れているからって、あまりにも酷じゃありませんか。そもそも尾田さんが想定していなくても、ワンピを読んでいる女性読者はたくさんいるのにね。

 

というこれまでのワンピの女性/母親表象があった上での、今作のオリジナルキャラクターは女性であるウタ。

この期に及んで私がなんでワンピの女性表象に期待するのか理解できない人もいるだろうと思うけれど、最近のワンピは「お?アップデートしてる?」と思えることも度々あったのだ。

たとえばトランスジェンダーとして描かれる侍のお菊の扱い。自分を犠牲にしても「女性を守る騎士」でいようとし続けてきたサンジが、ロビンに助けを求めたエピソード。そもそも、権力の腐敗や格差を扱う手つきは、信頼できる人なのだ、尾田栄一郎。テーマがジェンダーに及ぶと途端にものすごい勢いで後退するだけで…。

 

とまあそんな理由でもしやウタは最高の女性キャラクターになるかもしれないと期待して映画館へ行った私は、映画を見ながら落胆に追い込まれることになる。

 

ウタはワンピ世界の中で、超有名な世界的アーティストである。ペンライトやハチマキを身につけた追っかけの存在からは、アイドル的な人気も集めていることがわかる。見ているうちに、人々がウタに熱狂する理由は彼女の圧倒的な歌唱力だけでなく、民衆が彼女の存在や歌に社会的なメッセージを託し、ウタがそれに応えるからだということもわかってくる。

ウタに託された社会的なメッセージとは「海賊は自分達を傷つけた」「許せない」だ。彼らは映画の後半で海軍たちが呼称するように一般市民であり、これまでルフィが倒してきた海賊たちのように、成敗されるべき正当な理由がある悪党ではない。何もしていないのに海賊によってさまざまな物を奪われた被害者たちなのだ。ウタは彼らに共感し、慰め、心の支えとなる。

後にウタの企みが明らかになろうとも、被害者たちの心を癒した事実は変わらない。そのことは、エンドロールの描写を見るに、映画の作り手だってわかっているはずである。

 

ウタは被害者たちの求める声に応えようと、暴走し始める。ルフィと競争する楽しい子どもだったウタを狂わせたのは、実は過去のある出来事が原因だった。信頼していた「父親代わり」のシャンクスに置き去りにされ、その後は「父親代わり」の音楽家と二人きりで何年も半監禁状態で暮らすことになる。

ウタは説明する。シャンクスに置き去りにされたから海賊を怨むのだと。ルフィは納得しない。「シャンクスはそんなことしない」と言う。ルフィにとっても、シャンクスは「父親代わり」なのだ…。

 

と、そんな調子で物語が進んでいく。ファンの気持ちに応えるため、ウタは大規模な無理心中を企てようとしていることが発覚する。能力を使い続けるために食べている、きのこの作用で精神はまともではない、ということも説明される。

「シャンクスの娘」と謳われ、期待を向けられた映画オリジナルキャラクター、ウタは世界を滅亡させかねないヤバいやつだった…。当初、今作のネタバレがSNS等に流通するのを公式が禁じたのは、このウタの印象のひっくり返しによる衝撃を狙ったからだ。

しかし私は単純にカッコいい女性キャラクターが見たくて劇場に行った。ウタのスタンスがかなり敵役側に寄って行っても、想像とは違ったけどカッコいいヴィランになるならそれはそれでいいと思った。

でも、ウタの計画は最初から破綻している。そもそも「新時代」の動機からして、意味がわからない。筋が通っていない。計画や動機が明らかになるほど、ウタがとんでもない世間知らずで人騒がせな迷惑野郎に思えてくる。しかも、ある種カッコいいともいえるサイコでヒールな態度は、怪しいキノコのせいで精神的に「おかしくなっている」から現れているのだという。こんなの全然カッコよくない。

しかもルフィは幼馴染の女性だからといって、全然戦おうとしない。しかしウタの話を聞き、寄り添うこともしようとしない。口を閉ざし立ち尽くすルフィの前で、ウタが暴走する。やっぱり全然カッコいいと思えない。

 

途中で明らかになるシャンクスの思惑、エレジアの真実。それを聞いたって「シャンクスはやっぱり悪くなかった」とは思えない。ウタは「置いていかれた」と深い心の傷を負うことになるし、結局トットムジカが眠る島におじさんと二人きりでウタを置いていくのって、なんのリスクヘッジにもなってないというか、むしろ最悪の選択肢じゃないか?

おじさんのその後の対応も最悪だ。世の中と隔絶させて閉じ込め、ウタが偶然真実を知る前も後も、説明しようとすらしなかった。ウタの計画に世間知らずゆえの破綻があるとするなら、それはこのおじさんとシャンクスのせいだ。ウタが真実を知っていようがいまいが、子どもだったウタにはなんの罪もない。責任もない。シャンクスは全然無実じゃない!!

 

なのにウタを散々カッコ悪く暴れさせて、シャンクスとルフィの(擬似父子の)絆をカッコよく強調して、(ついでにヤソップとウソップの父子の絆も強調して)まるで仕方がないことみたいにウタを殺して丸く収めた感じにするなんて…。

あー、はいはい。やっぱり女性の受け手は想定していないし、女性に主体的な冒険はさせないんだね。なんら変わってない、いつものワンピだ。私が期待しすぎただけ、そーですね…。

 

加えてとてつもなく気になるのは、ウタに託された一般市民たちの思いのゆくえ。「家族を海賊に殺され」「海賊に怯える生活から逃げたい」と思っていた人たちの訴え、ウタの歌を借りた彼らの主張は、何も昇華されないまま残ってる。

「シャンクスはそんなことしない」「ルフィはそんなことしない」で終わらせていいのか?それって「ノットオールパイレーツ」じゃないか?海賊も海軍も信用できない。だからウタは歌ったんじゃないの?その問いかけは、どこへ?ルフィが継ぐの?ルフィこそ海賊なのに?

 

なんか今回の映画はめっちゃバックラッシュ的だったり、トーンポリシング的だなと感じてしまって。というのも、弱い立場の今まで声を上げられなかった人たちが声を上げたことに対して、強者側がそれを封殺する話で。しかも「やり方が間違っていた」ために、切実だったはずの訴えごと、なかったことになってしまう。

「新しい時代にみんなで行こう」と言いながら、人々を殺そうとするウタに、「ポリコレ」「表現規制」的なイメージを重ねて見る人もいるんじゃないの、と思ってしまう。急進的な変化を求める「女性」を悪として、彼女に立ち向かう、少年たちが憧れる存在であるシャンクスとルフィ。この構図全然気持ちよくないというか、嫌悪感すら覚えるよ。

 

自分と母を置いて「冒険」に出たヤソップへの尊敬を持ち続けるウソップの気持ちが全然わかんない。ひたすら置いていかれた母親が気の毒だと思う。でもこの映画はやっぱり、置いていくシャンクスを肯定するし、ルフィはその背中を追い続ける。

ウタはもうシャンクスの背中を追えない。海賊になれないし、海賊を憎むこともできない。また、女が死んだのだ。

 

ワンピがそういう作品だってことは充分わかっていたつもりだった。でも鑑賞から1週間経った今も、モヤモヤが燻っておさまらない。