『イニシェリン島の精霊』自分語りメモ

大勢で会話している時に、私が話した後だけポカンと沈黙の間が空くと、無性に恐ろしくなってしまう。あれっ、私いま空気読めてなかったかな。なんか怒らせちゃったかな。言っちゃいけないこと言ったかな。

もちろん大抵の場合、それはただの沈黙なんだけど、周りにたくさん人がいるのに、陸から離れた小さな島でたったひとり遭難したような心許なさに襲われるのだ。大丈夫だよね。みんなは私のこと嫌いじゃないよね。私はひとりじゃないよね。

私は衝動性の強いタイプで、何も考えなしに言葉を口からこぼしては、いつも頭の中で慌てている。取り繕おうとすると余計に酷いことになるのは身に染みているけど、ついつい耐えられなくて言葉を重ねてしまう。笑わせたらなんとかなる気がして、過剰におちゃらけてみたり。

そんな私は、人から見ると「お気楽で、悩みがなさそう」に見えるらしい。安堵の気持ちと納得いかなさが混ざり合う。こんなに「怖い」のに、そうは見えないんだなと。いつも居場所をなくすことに怯えている。

 

一方で、私にはとても薄情なところがある。せっかく連絡してきてくれた昔の同僚の連絡を無視する。毎日一緒に学校に通っていた親友にいきなり「もう友達でいられない」と関係を切ってしまう。10年以上仲良くしていた幼馴染と喧嘩っぽい感じで別れて4年経つのに、こちらから連絡をするつもりがない。こんな自分をすごく軽蔑している。

これも自分の衝動性と切り離しては語れない。自分が「やりたい」と感じたことを後先考えず衝動的に行動に移してしまうところがあり、プレッシャーやストレスにめっぽう弱くすぐに逃避する。上に書いたように「人に嫌われるのが恐ろしい」という対人不安もあるので、友人付き合いを苦痛に感じ、不義理をしてしまうことがとても多いのである。

たぶんだけど、衝動性に加えて、学生時代から長く続いた抑うつも影響してるかもしれない。思春期の長い時間を誰もいない家でひとりで過ごし、夜遅く帰ってきた母親の不機嫌にいつも怯えていたのも関係あるかもしれない。相手はあんなに優しくしてくれたのに、私も相手を好きで優しさを返したいと思っていのに、サブスクを解約するみたいにバッサリと関係を切ってしまう。

人間関係はひとりでやるものじゃない。いつだって相互的だ。私だけが「友達になりたい」と思っていても友達にはなれない。それなりに深い友人関係には、家族や恋人関係と同様に責任も生まれると思う。だから、信頼してくれていた相手との関係を、説明もせず相手に非がないのに一方的にぶった斬ってしまった私の行為は、間違いなく裏切りだし、とことん不義理で、褒められたものじゃないと思って、思い出しては悔いている。でもなかなか変われない。

 

まるで私という、なかなか不毛な孤島の中に、パードリックとコルムの両方が住んでいるみたいだと思う。

私の中のパードリックは、コルムに好かれたいと願う。空回りして呆れられるとわかっているのに、好かれたい気持ちでいっぱいで、頭で浮かんだくだらないことを、コルムが笑ってくれやしないかと期待してペラペラくっちゃべってしまう。

私の中のコルムは、パードリックのようになりたくないと恐れている。深い考えがなく、教養のない、人間関係だけを娯楽としているパードリックのことを見下していて、自分はそうではないということをアピールしたがる。見下しているくせに、相手が持っている幸せに嫉妬して、怒っている。スネている。思い通りにならなくて憤慨して、殻の中に閉じこもってしまう。

 

あら不思議。私にかかるとパードリックとコルムが同じ対人不安に悩まされてるように見えてくる。

『イニシェリン島の精霊』は、非常に寓話的で示唆的。解釈の余地が幅広く取られていて、パードリックとコルムの人物造形は、つい自分や周囲の誰かと重ね合わせたくなるような秀逸なつくりだ。

私が『イニシェリン島の精霊』が好きな理由。それは、ウザくて中身のないパードリックにも、傲慢で鬱々としたコルムにも、論理では説明できない揺るぎない「良心」があると信じているところだ。

目を覆いたくなるような酷い世界。100年前も今もおんなじだ。暴力と非合理的な理屈がうねりを上げる、もういなくなっちゃいたくなるような世界。そこで最後の砦になるのは、きっと「良心」だ。人を選ばず適用される「良心」だ。

私がパードリックでありコルムなら、そんな「良心」を持てるはず、と信じてもいいだろうか。